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    爆笑問題のニッポンの教養 文化人類学 川田順造

    爆笑問題のニッポンの教養。
    今日は文化人類学の川田順造氏との対談だった。

    文字をもたない文化があり、
    そこでは太鼓の音がコミュニケーションの手段として使われる。
    言葉という口による伝達手段をもつ自分たちにとって
    太鼓という手による伝達手段というのは稀有に感じられる。

    自分たちにとっては
    言葉による伝達の方が容易く、太鼓による伝達の方が難しい。
    他方、彼らにとっては
    太鼓による伝達の方が容易く、言葉による伝達の方が難しいらしい。
    どちらが伝達手段として優れているかは、伝達者の文化に依る。
    客観的な優劣は決められず、主観的な優劣しか論じられない。
    そもそも優劣などという問題は、主観によってしか論じられない問題ではあるが。

    言葉による伝達も太鼓による伝達も、
    どちらも音であるということ、
    耳で認識される種類の伝達であることは共通している。
    そういった意味で、この2つの伝達というのは紙一重であるようにも思える。

    伝達手段はもう一段階進化していて、
    言葉は文字に、太鼓は楽譜という伝達手段に進化した。
    耳で認識できる伝達から、目で認識できる伝達に進化したのだ。
    耳よりも目の方が、より的確に鮮明に認識ができる。
    紙一枚で伝達の正確さや精密さが格段に進歩したといえる。

    伝達手段はさらにもう一段階進歩した。
    言葉や太鼓といった聴覚的情報は録音が可能になり、
    文字や楽譜といった視覚的情報は印刷が可能になり、
    どちらの情報も複製が可能になり、
    それを大量に発信し、大量に受信することが可能になった。

    様々な情報が飛び交う中、
    自分達は一体どれだけの情報を認識できているのだろうか。
    情報が溢れることによって、情報を取りこぼすことが当たり前になっている。
    多様な価値観が生まれることによって、理解し合えないことが当たり前になっている。

    本来、意思疎通というものは、
    思考の断片を音声に変換し、その音声の断片を思考に変換することで、
    思考と思考の整合性をとってお互いを理解しあうことを目的としていた。
    その意思疎通の手段が進歩し、
    思考の断片を記号に変換し、その記号の断片を思考に変換することで、
    お互いを理解することが可能になった。

    そして今、お互いの思考の間にある音声や記号、
    これらの情報が大量化・複雑化して
    思考の整合性が逆にとれなくなってしまっている。
    思考の整合性が取れないことが当たり前になり、それを気にしなくなってしまっている。
    そして、思考の整合性を取らせないことで、
    社会的な立場や自分の心を守ろうとする。
    すると、ただでさえ大量で複雑化した情報の中に、
    欺瞞、建前、虚偽、錯誤、
    そういった情報の信憑性を損ねるような疑惑が入り混じるようになり、
    情報全体の価値が失われていく。

    これは現代のコミュニケーションの危機かもしれない。
    我々は今一度、コミュニケーションの大切さを見直すと同時に、
    情報の判断能力を磨くという面倒な鍛錬をおこなっていかなければならない。

    などどいうことをテレビを見て考えた。


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