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    爆笑問題のニッポンの教養 障害学 福島智 わたしはここにいる

    爆笑問題のニッポンの教養。今日は障害学の福島智教授との対談。
    目が見えず耳も聞こえない福島教授とのコミュニケーションは、
    通訳の人が指を規則的に叩くという指点字でおこなわれた。

    障害といいう現象を通して何を考えるのかが重要。
    福島教授のその言葉が印象的だった。

    障害者という存在は、考えてみれば人間特有のものだと思う。
    もし人間以外の動物が障害者となれば、自然淘汰されて生きてはいけない。
    障害者として生きていけるのは人間だけであり、
    人間であるからこそ障害を抱えながらも生きていける。
    それは人間が人と人との間で生きる存在であるからであり、
    自分を助けてくれる存在がいるからだと思う。
    「間」という存在がないと生きていけなくなってしまった人間は、
    生物学的には弱くなってしまったのかもしれないし、
    それが精神的な弱さなどを生み出しているのかもしれない。
    しかしながら、その「間」こそが人間の作り上げた強さであり、
    文明であり社会であると言える。

    障害者にとって真の障害とは、
    身体的なものではなく、社会的なものであると福島教授は語る。
    社会的に不当な扱いを受けること、それが障害であると。
    残念ながら、その点は我々も認めざるを得ない。
    健常者と対等の社会活動をおこなえないならば、
    社会で妥当な扱いを受けることはできない。
    能力が欠けている人間は、障害者であれ健常者であれ、
    社会的な不利益を被ることは必然である。
    その社会的な不利益を凝縮された形で被るのが障害者という存在であり、
    それが社会的障害なのだと福島教授は語った。

    社会というものを作り上げた人間は豊かになったが、
    一方で、社会に適合できない人間は不遇を強いられることになる。
    その不遇は、社会ができる以前に人間が抱えていた以上のものであるのかもしれない。
    幸福と不幸を総和として考えれば、何も生み出されていないのと同じなのかもしれないし、
    格差が人間の間に生み出されただけなのかもしれない。

    そんな中でも我々が幸せを感じられるのは、
    幸福だと思える瞬間があるからであり、
    その瞬間がどれだけあるのかで幸せは決まるのかもしれないと太田光は語った。

    幸せが相対的なものであるなら、
    不幸を経験してこそ見える幸せも数多くあるかもしれない。
    様々な物や概念を生み出した社会の中には、相対化できる対象が無数に存在するから、
    高度な社会に生きる我々は、
    そうでない人たちよりも幸福を享受できる可能性が格段に存在するはずである。
    このありあまる富により、贅沢になったり麻痺したりして幸福を見失ってはいけない。
    「間」に生きる存在として、その「間」にあるものをしっかりと見つめなければならないと思う。


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